輸送機設計研究協会 通称「輸研」
1957年設立された財団法人で東京大学内に設立された。
理事長 新三菱重工 荘田泰蔵 専任理事 木村秀政 東京大学教授
政府のほか航空機関連メーカー(左表)、商社、金融機関等約200社の民間が出資。
5人の侍
YS11開発の基礎研究と基本設計を行った輸研には「ゼロ戦」を設計した新三菱の堀越二郎、中島飛行機で「隼」設計の富士重工 太田稔、川崎航空機で「紫電」設計の新明和 菊原静男、川崎航空で「飛燕」を設計した土井武夫と言った戦前の航空技術を支えた技術者が参加、設計に没頭した。
これに航研機の製作に携わった木村秀政(写真)を加えて「5人の侍」と呼んだ。
日本航空機製造株式会社(日航製)
「輸研」から「日航製」へ。
通産省(現経済産業省)が中心になり1959年 新三菱重工、川崎航空機、富士重工など機体製造会社にも出資を募って設立された特殊法人。
社長 荘田泰三(輸研理事長) 技術部長 東條輝男
東條 輝男
5人の侍による基本設計を受け継ぎ、詳細設計を行った技術部門のトップとして多くの技術者の能力を引出し、まとめ上げる力量を持ち、かつ人間的にも優れた人物であった。
陸軍大臣,首相を歴任した東條英機の次男だが、父の勧めで軍事畑に入らず帝大(東大)航空学科を卒業し、三菱重工に入社しゼロ戦の強度計算を担当した経歴を持つ。
塩原竹治
輸研時代から最後まで、ひたすらYS11と共に歩んだ技術者。同年代の鳥養鶴雄も
同様な技術者。
日本の航空会社
航空解禁の昭和27年での旅客者数は10万人規模に対し昭和31年(1956)ではその3倍以上に達し将来の伸長が予測された。
昭和26年(解禁前)GHQの意向で日本航空が、同27年には全日本空輸・ANAの前身である日本ヘリコプター輸送、極東航空が、更に翌年東亜国内航空前身の会社が誕生している。
当時の主力機 DC3 (2体)
戦前からの名機
1935年(昭10)初飛行
翌年から運用開始
13,000機生産
群を抜いた機数を誇った。
主に軍用機として生産されたが戦後払下げ、かつ改造される等大量に出回る。
コンベア440
DC4
学童向け「乗り物図鑑」 の花形。スマートな4発 機は少年達の目を釘付け にした。懐かしい機。
これ等は大量に出まわり その代替機には各国が注 目するところであった。
旅客数の伸びるなか、日本の空は日本の翼で…との願いが高まっていった。
YS11機内公開イベントより (所沢航空公園/2016.10.29)
コクピット 正面 コクピットセンター
コントロールレバー他コクピット サイド
客席 最大64席 トイレ、洗面
ロールスロイス ダート
ターボプロップエンジン部プロペラ
主軸ストラット(右) 前輪 落下試験後の胴体4
下部の平ら部は変形状態
エンジン格納部
どのリベットにも凹凸なし機体後部より
製造終了
1973年(昭和48)打切り。 航空産業,高度技術に対する国策としての将来展望、営業的施策、コストダウン意欲…等どうだったのか、の疑問を持つ意見もある。
日本の技術・信頼性評価は現在とは多分に異なる厳しい環境の中、初期の技術的トラブルを乗り越え安定性、堅牢、経済性の評価を得つつあった。だが採算面で目途が立たず残念な結果となった。「ここまで来たのに…」と多くの無念の思いがあったと聞く。
耐久性に関しては 3万時間/10年の目標に対し78,000時間を超える機も出現した。
全製造機数:182機
・国内民間機:75機
・ 〃 官庁:34機
・輸出(13ヶ国):76機
これ等合計は 185機となり合わないが、182機が正しいようだ。
輸出75機とカウントする資料もある。
(また試作・試験機を官庁の数に含めたか?…これは推測です)