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   航空 宇宙 space              History of Japanese Aiecraft development 

    日本の航空機 発展の歴史  <所沢航空発祥記念館見学記>

  航空思想のパイオニア 二宮忠八   
 
忠八は1866年 慶応2 愛媛県八幡浜 武士の家に生れた。父親を早く亡くし生活は苦しく薬種業や測量で生計を立てる中、凧作りに興味を持ち、彼の凧は「忠八凧」として宣伝用に使われるまでのものであった。
 やがて陸軍に看護手として参加、演習などを通じ発明に関心を高めていった。
 上空を滑空する烏を見て飛行器(機)のヒントを得て製作したゴム動力式の模型機。

  

 更に昆虫や飛び魚を通じて飛行原理を研究し、玉虫の飛行方法をモデルに玉虫号の模型を製作した。1894年(明治27)。
   
 欧米でも 『リリエンタール』 『ラングレー』 などが盛んに研究していた頃で、日本でもこの『足こぎでプロペラ&車輪を駆動する推進装置』 『可変翼』…などのアイデア、工夫は進歩的で更に『飛行器』という名称を付けたこともその先進性をよく表すと言われている。

 忠八は本格的研究を進めるべく設計図と上申書を提出したが、当時の参謀長 『長岡外史大佐』は受け入れなかった。(長岡は、こんなものは戦争には役立たない…と将来への潜在能力を見抜けなかったのでした)
    
 忠八の写真の右に設計図、同じく下は上申書。凧、船、自転車はそれぞれ飛行原理、推進力、滑走のアイデアを説明したものである。

 右は後の長岡外史 (ナガオカガイシ)。
 後に自身の先見性のなさに気づき 忠八に謝罪、飛行機の発展に尽力した。 すなおに忠八に謝ったとは 古(いにしえ)の大物のようで、陸軍中将まで上り詰めた。

 そして二宮の研究と功績を後世に伝えるとともに飛行機の普及を計るため大正4年に国民飛行協会、のちの帝国飛行協会を創設し、人材の顕彰や育成にあたった。

 また、軍務局長であった明治42年には、初代の臨時軍用気球研究会の会長を兼務し、日本軍の航空分野の草創期に貢献した。

 日本での初飛行
 1910年(明治44年) 徳川好敏、日野熊蔵 両大尉が操縦し成し遂げられた。 日野大尉はドイツ製のグラーデ機、徳川大尉はフランスのファルマン機を操縦。両大尉それぞれが学んだところの飛行機であった。 左日野、右徳川両大尉
  
 新聞の写真は徳川大尉操縦のファルマン機
  
 試験飛行は、代々木練兵場において 明治43年(1910) 12月14, 16 予備飛行が行われた。 これは本飛行に先駆けてのもので地上滑走試験であったが、 2〜5m 飛び上がった。そして19日に本飛行が行われ、先ず徳川大尉によるアンリ・ファルマン機が高度70m 距離3000mを飛行した。
 続いて日野大尉のハンス・グラーデ機は高度20m 距離1000mを飛び、これ等が日本初の公式記録となった。
  
  一方日本初の飛行場として開設された
所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年) 4月5日で、徳川大尉が同じく アンリ・ファルマン複葉機で高度10メートル 距離は800m飛行した。
 次いで以下「ブレリオXI-2bis」単葉機(模型)で上記のすぐ後4月19日同じく所沢飛行場にて徳川大尉により対空時1時間10分、距離80kmの当時大記録を打ち立てられた。

  
  ブレリオXI 機は 1907年 英仏海峡を初飛行したフランス機である。

 奈良原三次という海軍技師設計の「奈良原式2号複葉機」は同じく明治44年の5月に所沢飛行場にて高度4m、距離60mを飛び国産機による初飛行を記録している。

  
   発動機はアンリファルマンに搭載されるグノーム式発動機を使用している

   「会式一号機」と徳川大尉

 会式という呼称の由来;
 航空技術を研究するための 『軍用気球研究会』 が1909年(明治42年)7月に創設され、立地の良い所沢が選定された。

 この研究会で設計製作されたため研究会の方式…の意で『会式』と呼ばれた。
 徳川大尉の監督・指導により製作されたが、適当な工作器械がなかったため 木製部分は、のこぎりを使用したと言われ、施行錯誤で困難を乗り越えて製作された。

中島飛行機 中島知久平 (1884−1949)
 
日本の航空機発展に貢献・活躍した人々は多いが、中島知久平の実績は群を抜いている。

 勤勉・努力家の彼は優秀な成績で海軍機関学校を卒業し、海軍機関将校となったが欧米の状況をつぶさに見るにつけ航空機の自力製造の思想、持論は軍の枠をはろかに超えていった。そして33歳(大正6年)の若さで軍を離れ郷里の群馬県尾島村(当時)に帰り『飛行機研究所』を開いた。農家の養蚕小屋でそれを始めたと言われる。
 その人物像は、政治家としても実業家としても秀でており、飛行機の軍事利用化の潮流の真っ只中で中島飛行機は進化し翌大正7年今の太田市へ移り研究所から製作所へ、そして昭和6年には株式会社へと拡大して行った。終戦までに
3万機を製造、第二次大戦中はトップシェア(2位三菱)、発動機も31%を越え首位三菱に次ぐ等 巨人三菱と凌ぎを削った。 (2万数千機とする資料・数え方もある)
 三菱重工は兵器製造にも従事したため、中島が分担した事情もある。

 以下の中島五型練習機一号機は大正9年(1920)初めての制式機となり、大きな飛躍となった機である。(制式機とは:定められた様式を採っている機のこと

     

 以降は大小多くのメーカーが様々な種類の軍用機の開発、製造にしのぎを削る時代となる。三菱、中島の他、川崎、川西(後の新明和)、石川島(立川-立飛)、愛知などがある。

中島の九一式戦闘機 
1931年 = 皇紀2591年の下二桁より『九一式』という。
 複葉機から単葉機へ、木製から金属へ、運動性能の飛躍的上昇。そして大量生産。

   
  以下は九一式の胴体前方部(残存実物)
   


航空記念館に掲げられた主要戦闘機の 陸:海軍(中島:三菱)対比
陸軍…中島飛行機 左側
海軍…三菱重工  右側

主設計技師 
中島…小山 悌 

三菱…堀越 二郎


  陸軍      海軍
九七式戦闘機   九六式艦上戦闘機




一式 〃 隼    一二試艦上 〃 零戦




二式単座 〃    一四試局地〃雷電
 鍾馗



四式〃疾風   一七試艦上〃烈風


 小山 悌は帝大卒の入社組の一人。知久平は優秀な人材獲得に奔走している。当初町工場の時代から「吉田 孝雄」という初めての帝大生を三顧の礼をもって招へいしたという。吉田が東武電車の太田駅に降り立った際は会社関係者だけでなく町役場の幹部まで出迎え本人も驚いたそうだ。町民まで小旗をふり提灯行列までできたという伝説まである。
 吉田の後、三竹忍、小山悌、山本良三と人材をどんどん採用し優遇したが、
糸川英夫もその一人であった。小惑星探査機「はやぶさ」は中島代表作の「隼」からの命名であったが、あまり言いたくないようだ。どうも戦闘機が由来になるのは世間に対し具合がよくないのか、GHQの呪縛から未だ解放されてないか、(はたまたどこかの国がうるさいからか)困ったものだ。とにかく「はやぶさ」「イトカワ」の源流は中島にある。

 
 出典:印以下は「中島飛行機の終戦」西まさる著 新葉館出版を要約。但し冒頭の書き出し、及び末尾( )内は本HP筆者による。

藤森 正巳 
 中島飛行機における大量生産を実現させた人物で、海軍中尉だったが大変面白く痛快な出来事(ここでは略す)があり中島に入った。首相を務めた山本権平の甥で、海軍大将山本英輔は藤森に惚れ込んでおり、中島入りを懸命に進め実現させた。中島知久平も次第に藤森に大きな信頼を寄せるようになった。知久平が政界に移れたのも 中島をまかせられる藤森への信頼があったからこそ…との見方もできる。
 そして藤森は知久平の命で米国を視察するがその工業力、国力に度肝を抜かれる。とりわけ「フォード社」の大量生産設備、機械には驚き、帰国するや必死で工場の近代化、システム化、量産化に取り組んだ。


 また、終戦後中島の本社(東京駒場の旧前田侯爵邸)の所有権問題で興銀と相対する事態となったが、藤森のしたたかな戦略で問題を乗り越えたいきさつは痛快とさえいえる。
 
 余談ついでだが、知久平は昭和20年12月にGHQよりA級戦犯に指定される。出頭要請に憲兵が来ても知久平はこれを追い返し、以来糖尿病を理由にたびたびの出頭要請に遂に応えなかったという。ピンピンしているのに出頭しなかったのは知久平ただ一人であった。GHQも一目置いていたようだ。そして同24年66歳で亡くなっている。 

 以上も出典は同じで「中島飛行機の終戦」だが、本文では知久平、藤森の人物像が分かり易く描かれている。
いつの世でもしたたかな人々の動きは興味深いものが多くもっと書きとめたいところだが、主題から逸れるので、上の陸海軍戦闘機の対比に戻る。
 少し分かり易くするため表にまとめてみると;
 初飛行年  中島飛行機  三菱重工
1935
(昭和10)
 (機数は生産数)  海軍九六式艦上戦闘機
406km/h  1,094機
(中島製発動機)
 1936  陸軍九七式戦闘機
470km/h
3,380機
 
 1938  陸軍一式戦闘機
[隼] (ハヤブサ)
515km/h  5,751機
 
 1939  零戦の右記生産機の内
 6,546機を中島が
 ライセンス生産
 海軍一二試艦上戦闘機
[零戦]
533km/h  10,430機
(中島製発動機「栄」)
 1940 陸軍二式単座戦闘機
[鍾馗] (ショウキ)
605km/h  1,227機
 1942     海軍一四試局地戦闘機
 [雷電]
596km/h  621機
 1943 陸軍四式戦闘機 
[疾風] (ハヤテ)
624km/h 3,500機
 
 1944     海軍一七試艦上戦闘機
 [烈風]
574km/h  8機生産 終戦
 合 計
生産機数
 13,858 機 
(零戦ライセンス生産分を除く)
 12,153 機 
    (この他、陸海軍共に偵察機、輸送機、練習機、飛行艇等多くの機種が製造された)

隼、零戦に搭載された発動機

 ハ115発動機は、中島飛行機が開発・製造し陸軍機「隼/はやぶさ」に搭載された。海軍名称のほうは栄(さかえ)で「零戦」に採用されている。
 陸軍にハ25として採用された後、性能向上型としてハ105、ハ115。後に陸海軍統合名称としてはハ35と呼称されるようになる。複列14気筒でバルブ駆動方式はOHV。設計的には、中島がライセンス生産していたプラット・アンド・ホイットニーのエンジンの影響を受けている。

 上の発動機は「所沢航空記念発祥館」に特別展示(H28.7.24-9.4)された残存品

 終戦。 
 1952年(昭和27年) 航空機生産活動再開


YS - 11 機 10月末 所沢において機内の公開があるようなので 見学し記事にする予定です


中島 知久平邸  群馬県太田市 (以下余談です)
 旧尾島村/現太田市に合併前は「尾島町」利根川の北側田園地帯に位置する。
今年(H28)国指定の重要文化財に制定された 玄関の車寄せ
紹介パンフのトップ常連
玄関正面
御影石の階段は、
巾4.8m一枚石x3
 知久平は生涯妻を持たなかったが、文部大臣に上り詰めたもの、議員、経営者等々優秀な子孫を残している。この邸宅は賓客や両親のための大邸宅である、
応接間が二つ続く
通常の6尺を6尺5寸基準としている。
天井は取分け高く作られている。なんと当時でのオール電化、洋式トイレだった。

(写真の家具は現代の物と見られる。扇風機は奇妙)
3千余坪の敷地
(一万平米超)
 
全建物平面図
敷地全周を囲む築地塀
この南(左)側100mには利根川が流れる。
当時は河川敷を滑走路にして試験機を飛ばした。
…続く
…続き 
 中島五型練習機は大きな飛躍となったと述べたが、これに至るには多くの失敗があった。(以下再び「中島飛行機の終戦」西まさる著 より)河川敷には多くの人が集まるのだがいつも飛び上がらない。「お札はだぶつく、物価は上がる、上がらないぞえ中島飛行機」と、ざれ歌ができたという。

幻の超重爆撃機「富嶽」模型
 残された図面をもとに、中島を源流とする富士重工[現スバル]や関係会社のOB、その他有志の人達が集まり「富嶽を飛ばす会」が結成された。幻の機を空に…と物作りに携わってきた人達の「難しい大型モデルに挑戦する」という純粋・熱心な思い入れでやっているようです。
中島邸から少し上流にある模型飛行機用の飛行場にて
地面スレスレより撮影これらは旅客機版
1/12 スケール
時折り催される飛行イベントにて
 ここは群馬県太田市 尾島RCスカイポート  飛行動画は こちら(Uチューブ)から。
雄姿? 爆撃機版は一回り大きい
こちらは 1/15 スケール

平面略図 
左から  B29
富嶽爆撃機
YS11
富嶽旅客機
 飛ばす機は旅客タイプが中心でした。また、飛行機は人,ものを運ぶものという知久平が民間機に目を向けていたこともふまえ輸送機タイプを製作中という話も聞いた。来年に期待したい。

 出典について

「中島飛行機の終戦」西まさる著
   新葉館出版

 詳細な調査を基に、それぞれの人物像が興味深く描かれていたので、一部を引用・参考にさせて頂きました。




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バナースペース

西暦 日本 世界 
 1894 二宮忠八 玉虫型飛行器(機) 模型製作
1903 ライト兄弟初飛行
フライヤー機
1909 ルイプレリオ英仏海峡初横断
1910 日野、徳川 仏・独機で初飛行 代々木練兵場 
1911 奈良原三次初国産機 飛行成功
会式1号機飛行成功 
1915〜 陸軍による試作機製作盛ん  
 1917

1918
 中島知久平 飛行機研究所       設立  
日本飛行器製作所 合資会社化
1916

1920
ボーイング社 設立
ダグラス社
 1927    リンドバーク  NY-パリ 大西洋横断成功
1931 陸軍九一式(戦)採用 1932 ロッキード社
1938 東大航研機 世界記録樹立 
隼(はやぶさ) 初飛行
1939 三菱式双発輸送機世界一周 
ゼロ戦 初飛行
1947  ベルX-1
音速突破
1952 航空機生産活動再開  
1958

1959
 ボーイング707
ダグラスDC8 初飛行
1962 YS11 初飛行 
1969 ボーイング747 ジャンボ 
コンコルド初飛行

  







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